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help リーダーに追加 RSS 現代詩>詩誌>詩学と現代詩手帖(10.2追記)

<<   作成日時 : 2005/02/27 14:21   >>

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 昨年から「体調不良」を洩らしていた寺西幹仁編集長が、ついに3月からの「詩学」休刊に踏み切った。体調の悪化のため、静養につとめるとのことである。



 戦後まもなく、昭和21年(1946)1月に、戦後初の総合詩誌として、詩人岩佐東一郎(および北園克衛・城左門ら)編集の「近代詩苑」(近代詩苑社)が創刊された。
 実際には、前年内に出す予定が「印刷所のひどい手不足」もあって、3月初旬に創刊号(1月号)が出たわけだが(2月に、新円切替・預金封鎖などあって混乱に拍車をかけていた)、初刷の部数は、2070部だった。
 詩の文化講演会(満員)を催し、多くの新人の作品や海外情報も掲載し、叢書シリーズなど新企画をうち出したが、「新円資金のやりくりに窮し」て、第3号(3・4月合併号)で休刊となった。
 その「後始末」を城左門の「ゆうとぴあ」に誌友名簿ととも「引きついでもらう」ことになった。

 「詩学」の前身である「ゆうとぴあ」は岩谷書店発行で昭和21年9月に創刊(城左門ら編集)された。詩人城左門は、時代小説(特に捕物小説)で名高い城昌幸である。
 翌22年5月まで刊行したが、資金難などでストップ。

 城左門が詩学社を設立し、「ゆうとぴあ」を改題して「詩学」を創刊したのが、同年8月。
 城は前年4月に創刊された月刊誌「宝石」の宝石社の社主だが、当時のことは不詳。推測だが、城の個人収入からして、以後の詩学社の資金難は少なからず解消されたものと思われる(経費不足になると城はポケットマネーを出していたという)。
 編集は発行人城左門(稲並昌幸)のほか、木原孝一(「荒地」)・嵯峨信之ら。

 "戦後詩"の全般をジャーナリスティックにとり上げ、「詩学」の地位を確立したのは、木原孝一編集長だった。企画力と渉外力にすぐれ、荒地派ではあったが、社会派にも通じていて、広い視野をもっていた。 (書き洩らしていたので、10.2追記する)

 のち、編集長は嵯峨信之、岡田幸文、篠原憲二らの諸氏を経て、何年前だったか 大阪出身の 寺西幹仁が編集を継ぎ、やがて社主となった(委細は異なるが一応こうしておく)。
 (注:寺西編集長は鳥取出身ではないかとのFさんの示唆いただき、大阪出身は記憶誤りとして消去)

 さて、「詩学」は"詩壇の公器"を自負していたが、創刊号後記で城左門は「広く、文学的綜合誌たらん」と抱負を述べている。
 以下、「資料・現代の詩」講談社(1981)を参考に、「詩学」の歩みを述べるが、抱負のように、短歌・俳句への目配りや、海外の動向や翻訳詩紹介、派閥に偏らない詩人論・作品論、新人の発掘など、総合誌にふさわしい編集につとめてきた。

 昭和22年10月、第1回詩学詩人賞主催(受賞三好豊一郎、次点が祝算之介・平林敏彦)。11月、研究作品(投稿)欄設置(昭和24年8月以降、ほぼ常設化)。翌25年2月、詩学新進詩人入選発表(35人)。5月、初の「全国詩雑誌推薦詩人」を特集(54誌80人)。8月、新人推薦のため「詩学審査委員会」設置(毎年12月)。翌年2月、第1回推薦詩人発表。

 昭和26年3月、別冊「現代英米詩選」特集号。同年11月には「荒地グループ批判」を特集。昭和27年12月、初の「詩学年鑑」1953年版(12月号)、増刊号で出したりしながら昭和40年まで刊行。28年9月、「全国詩誌展望」特集号(この年、詩誌の数は「文芸年鑑」で推定500以上とされた)。翌年4月、「詩学」懸賞募集入選発表(一席=川上春雄・高橋享)。9月、「全国詩誌展望」特集。

 昭和30年5月、「現代詩戦後十年」増刊。9月、「全国詩誌展望」増刊号。31年2月、推薦詩人発表(5人、井上俊夫・梅本育子・笹原常与・松田幸雄・山下千江)。3月、「『詩学』の功罪」100号記念号。32年7月、「現代詩読本」増刊号。33年8月、「現代詩とはなにか」増刊号。11月、「昭和詩壇史」特集。

 34年4月、「今日の詩的課題」特集。〔「現代詩手帖」(以下、手帖と略す)が6月に創刊される〕 8月、「四季の再検討」特集(だが、手帖は同月「荒地グループの総決算」特集)。11月、「今日の詩的課題」特集。35年2月、「'60・現代詩を探る」特集。3月、「現代詩の曲り角─現代詩の方向」特集。4月、「現代詩の曲り角─社会派の方向」特集(だが、手帖は「現代詩の技法」増刊号を出した)。5月、「現代詩の曲り角─芸術派」特集。9月、「難解詩の解剖」特集(必死で入門的企画を打ち出している)。11月、「現代詩七人論集」特集(だが、手帖は翌月、「実験詩25人集」を特集する)。

とまあ、こんな具合に、「詩学」は、戦後の激動にもまれながらも、増刊号を種々刊行し、苦しくなると合併号でしのぎ、"詩壇の公器"を掲げて、60年近い歴史があるわけである。

 他の総合的な詩誌の創刊年月を挙げると、

 昭和29年7月、「現代詩」創刊(百合出版。のち33年7月から現代詩の会発行となり、社会派を中心に一線級の詩人が結集。39年10月解散)
 昭和31年10月、「ユリイカ」創刊(書肆ユリイカ、伊達得夫編集。36年1月社主伊達の急逝により廃刊)
 昭和34年5月、「無限」創刊(政治公論社、編集北川冬彦・村野四郎・草野心平、のち慶光院芙沙子)
 昭和34年6月、「現代詩手帖」創刊(世代社のち思潮社、編集小田久郎)
 昭和38年1月、「詩人会議」創刊(詩人会議グループ、壺井繁治・赤木健介ら)

などがあるが、もっとも、ライバルとなり、結果「詩学」の牙城を崩したのは「現代詩手帖」で、'50年代後半からの"若者"台頭、そして"怒れる若者たち"・"ビートジェネーレーション"の波動が、詩の世界にも押し寄せてきて、その主力層が「現代詩手帖」を支持したのであった。

 「現代詩手帖」は、元々は大正5年創刊の投稿文芸誌「文章クラブ」(新潮社)で、経緯はわからないが、戦後あらためて創刊(昭和23年7月)されたものらしい。それを昭和33年6月に引き継いだのが「世代」(小田久郎編集)。小説・掌篇小説・詩・短歌・俳句などの文芸総合入門誌で投稿が主体だった。小田久郎は「文章クラブ」でも編集担当だったようだ。「世代」の投稿者は「文章クラブ」から7年も8年も続けている猛者も少なくなかったが、村野四郎選の詩投稿欄が"ヤングパワー"で次第に活気づき、喧騒と熱気を帯びてきた。

 そこでついに、詩人でもある小田久郎は、かねて念願の詩誌創刊へと踏み切った。これが「現代詩手帖」だが、初期は入門誌として、技法特集が続いたり、既成詩人の作品をこきおろす匿名批評が"ヤング"受けした。今年から刊行している「詩の森文庫」は、言ってみれば初心に帰ろうということだろう。

 しかも、投稿欄選者に当代売り出し中の人気詩人を多く採用し、読者を一気にふやし、ついに、昭和36年1月号で年鑑号を刊行した。中身は、質量ともに「詩学年鑑」を圧倒するものだった。それでも「詩学」は年鑑号を40年まで続けた(同人誌名簿には参加同人名が記載されていた)。

 やがて、「現代詩手帖」は発行部数1万を越え、原稿料も僅か(ちなみに新人の作品1篇は500円だったとか─1960年代末か70年代初め)だが、出せるようになり、創刊当初は、他の出版社の机1卓を間借りして編集していたが、うたかたとはいえ"詩ブーム"もあって、ついに自社ビルを建てるところまで、成長した。

 バブル崩壊後、"詩"は明彩を欠き、ぐずぐずのなし崩しの沈滞が浸透し、商業詩誌は売れなくなっていた。いまや、「現代詩手帖」は紀伊国屋書店にも旭屋書店にも置いてないという。まして、「詩学」など東京都下では、めったにお目にかからない。

 が、「詩学」は寺西編集長になって、ホームページを開設し(もともと大阪で「詩マーケット」という詩書販売のフリーマーケットを主催し、そのWebもあったし、個人サイトもある)、積極的にインターネットに打って出ていた。これが、そのうちどのように結実するのか、少なからず楽しみにしていただけに、今回の休刊は実に残念である。

                       LARA
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補足
「詩学」には、近現代の英仏その他海外の詩人の特集号などが
多く、また日本の詩人の特集号もあるが、ここでは煩雑になるので
省略させてもらった。

3月号は2月26日発売で出ています。
よって、3月の4月号から休刊となります。
なお、伝聞ながら寺西編集長の言によると
「年内には復刊させる」ということです。
                    LARA
LARA
2005/03/04 01:33
「詩学」が6月から復刊するとのこと。
ついで、事務所も4/19から移転するとのこと。
詳細は、詩学社HPにて。
             LARA
LARA
2005/04/14 09:13

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